ご先祖様を供養する

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先祖供養って、仏教とは……?

身近にいる家族や親族が亡くなった経験がある方は、「法事ってこんなにあるのか」と思った経験があるのではないでしょうか。お通夜と葬儀にはじまり、初七日、四十九日、一周忌からはじまる年忌法事は、もっとも多い場合は三十三回忌まで行われます。また本来は、初七日四十九日の前に、一週間ごとに「二七日(ふたなのか)」「三七日(みなのか)」などの法要を行います。四十九日は「七七日」にあたるわけです。
ご逝去の日を含めて49日で忌明けとなります。

亡くなられた日から三回忌までを図にすると、左のようになります。このうち、初七日法要まではお葬式までに済ませてしまうことが増えました。

このように、さまざまな法要を行って亡くなった方を丁重にお見送りする日本のご供養。法事を執り行うのは仏教のお坊様ですが、実はインドで生まれた古代仏教では、このように先祖を手厚くご供養するという考え方はありませんでした。

50bb620e25b8333b2ec5174d32672b6e_s日本の仏教では、亡くなられた方は四十九日で「ほとけさま」になり、その後もお盆などには現世に戻ってきます。そのためのよすがとしてお墓やお仏壇がある、という考え方です。一方インドの古代仏教では、人は亡くなって四十九日を迎えると、「輪廻転生」の輪の中に入って他の生き物として蘇ります。他の生き物として何度も生を繰り返すのですが、これは非常な苦痛である、とされています。ここから抜けるために修業を経て悟りを開くことで「解脱」を求めるのがインド古代仏教の教えです。
日本で現在もっとも広く信じられている浄土真宗は、修業によって悟りを開かなくても、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えればほとけさまとして極楽に生まれ変わることができる、としています。親鸞聖人が著した「歎異抄(たんにしょう)」には、「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という有名な言葉があります。誤解されがちですが、ここでいう「悪人」は「わずかでも煩悩をもっており、それに気づいている人」。「善人」は「自分が悪人であることにも気づいていない人」を指します。わたしたちが普段使う「善人」「悪人」という言葉と、ちょっと意味が違いますね。この考え方では、自覚していようといまいと、人間にはすべて煩悩があるものだ、としているのです。つまり、「自分に罪があると自覚していない人も極楽往生(輪廻転生の苦しみから離れて、仏として極楽に生まれ変わること)できるのだから、それに気づいている人ならなおさらできるでしょう」ということで、つまりこの世に生きるすべての人は極楽に行ける、と説いています(※たいへん簡単にご説明しましたので、できればご法事などの折にお坊様にご質問なさってみてください)。

さて、このようにインドで誕生した仏教と、日本で広く行われている仏教には違いがあります。どうして違うのかという理由にはさまざまな考え方がありますが、ひとつには「祖先を大切にする日本人の考え方に、仏教が歩み寄った」といえるでしょう。日本人が祖先を思う気持ちは非常に大きいものがあります。仏教伝来から数百年後、ヨーロッパからやってきたキリスト教の宣教師たちは「キリシタンにならなければ地獄に落ちる」と説いて回りました。それを聞いた当時の日本人が、宣教師たちに「では、キリスト教が入ってくる前に亡くなった自分たちの祖先は地獄に落ちているのか?」と質問したことがあるといいます。自分が救われるかどうかよりも、先祖のことを大切に思う日本人らしさが見えるエピソードです。

インドの仏教が日本に来るまでに、中国を経由しています。今の中国では仏教はあまり大きな勢力ではありませんが、中国の皇帝たちは仏教を保護し、都市ごとに巨大な寺院が建設されていました。中国で仏教が広まる時に、儒教の考え方を取り入れたのです。儒教は宗教というよりは、中国人が育んできた思想と生活習慣の積み重ねです。ここに、中国で昔から尊重されていた先祖崇拝の考え方が含まれています。
さて、中国人も日本人と同じく祖先を大切にする文化がありました。仏教は中国にとっても外来宗教ですが、仏教が中国に入ってきたときには、キリスト教を迎えた日本人と同じような葛藤が中国人にもありました。ここで、中国人は自分たちの祖先崇拝の考え方を仏教に付け加えたのです。お経は、キリスト教の聖書にあたる、仏教の教えを書いた書物です。仏教はインドのものですから、ほとんどのお経はもともと古代インドのサンスクリット語で書かれ、中国で中国語(漢文)に翻訳されたものです。ところが、現在存在するお経の中にはサンスクリット語の原典がないものがあります。これを「偽経」といいます。中国や日本で新たに書かれたお経のことを指すのです。ここに、中国人は祖先崇拝の気持ちを込めたお経を含めました。日本に入ってきた仏教は中国を経由していますから、日本の仏教にも最初から先祖崇拝の気持ちが込められていたわけです。

さて、このような経緯で、日本の仏教は先祖を大切にする考え方があるのです。お墓やお仏壇はその表れといえるでしょう。しかしなにより大きいのは、日本に住むわれわれがこれまでの歴史の中で積み重ねてきた習慣や意識の中に、「いま生きているわれわれは、いつもご先祖様に見守っていただいている。またわれわれは、その思いを届ける場としてのお墓やお仏壇を守り、心を込めてお手入れする」という思いがあることでしょう。日本人は家族や一族に対する思いが強く、それだけにお墓を築いてご先祖様をお祀りし、次の世代に引き継いでいくという習慣が身についているのです。

ご先祖様を祀る、ということは、仏教で決められた儀式をただ行えばいい、ということではありません。もちろん法事は大切なことですが、いちばん大事なのはいつも見守っていただいているご先祖様に折にふれて感謝し、その気持ちを受け継いでいくことでしょう。そのためのお墓、お仏壇ではないでしょうか。

おすすめのサイト:
しきたりや慣習にとらわれない自由な供養を 川崎市の墓地・霊園 “セントソフィアガーデン川崎”

ご先祖様を供養する

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先祖供養って、仏教とは……?

身近にいる家族や親族が亡くなった経験がある方は、「法事ってこんなにあるのか」と思った経験があるのではないでしょうか。お通夜と葬儀にはじまり、初七日、四十九日、一周忌からはじまる年忌法事は、もっとも多い場合は三十三回忌まで行われます。また本来は、初七日四十九日の前に、一週間ごとに「二七日(ふたなのか)」「三七日(みなのか)」などの法要を行います。四十九日は「七七日」にあたるわけです。
ご逝去の日を含めて49日で忌明けとなります。

亡くなられた日から三回忌までを図にすると、左のようになります。このうち、初七日法要まではお葬式までに済ませてしまうことが増えました。

このように、さまざまな法要を行って亡くなった方を丁重にお見送りする日本のご供養。法事を執り行うのは仏教のお坊様ですが、実はインドで生まれた古代仏教では、このように先祖を手厚くご供養するという考え方はありませんでした。

50bb620e25b8333b2ec5174d32672b6e_s日本の仏教では、亡くなられた方は四十九日で「ほとけさま」になり、その後もお盆などには現世に戻ってきます。そのためのよすがとしてお墓やお仏壇がある、という考え方です。一方インドの古代仏教では、人は亡くなって四十九日を迎えると、「輪廻転生」の輪の中に入って他の生き物として蘇ります。他の生き物として何度も生を繰り返すのですが、これは非常な苦痛である、とされています。ここから抜けるために修業を経て悟りを開くことで「解脱」を求めるのがインド古代仏教の教えです。
日本で現在もっとも広く信じられている浄土真宗は、修業によって悟りを開かなくても、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えればほとけさまとして極楽に生まれ変わることができる、としています。親鸞聖人が著した「歎異抄(たんにしょう)」には、「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という有名な言葉があります。誤解されがちですが、ここでいう「悪人」は「わずかでも煩悩をもっており、それに気づいている人」。「善人」は「自分が悪人であることにも気づいていない人」を指します。わたしたちが普段使う「善人」「悪人」という言葉と、ちょっと意味が違いますね。この考え方では、自覚していようといまいと、人間にはすべて煩悩があるものだ、としているのです。つまり、「自分に罪があると自覚していない人も極楽往生(輪廻転生の苦しみから離れて、仏として極楽に生まれ変わること)できるのだから、それに気づいている人ならなおさらできるでしょう」ということで、つまりこの世に生きるすべての人は極楽に行ける、と説いています(※たいへん簡単にご説明しましたので、できればご法事などの折にお坊様にご質問なさってみてください)。

さて、このようにインドで誕生した仏教と、日本で広く行われている仏教には違いがあります。どうして違うのかという理由にはさまざまな考え方がありますが、ひとつには「祖先を大切にする日本人の考え方に、仏教が歩み寄った」といえるでしょう。日本人が祖先を思う気持ちは非常に大きいものがあります。仏教伝来から数百年後、ヨーロッパからやってきたキリスト教の宣教師たちは「キリシタンにならなければ地獄に落ちる」と説いて回りました。それを聞いた当時の日本人が、宣教師たちに「では、キリスト教が入ってくる前に亡くなった自分たちの祖先は地獄に落ちているのか?」と質問したことがあるといいます。自分が救われるかどうかよりも、先祖のことを大切に思う日本人らしさが見えるエピソードです。

インドの仏教が日本に来るまでに、中国を経由しています。今の中国では仏教はあまり大きな勢力ではありませんが、中国の皇帝たちは仏教を保護し、都市ごとに巨大な寺院が建設されていました。中国で仏教が広まる時に、儒教の考え方を取り入れたのです。儒教は宗教というよりは、中国人が育んできた思想と生活習慣の積み重ねです。ここに、中国で昔から尊重されていた先祖崇拝の考え方が含まれています。
さて、中国人も日本人と同じく祖先を大切にする文化がありました。仏教は中国にとっても外来宗教ですが、仏教が中国に入ってきたときには、キリスト教を迎えた日本人と同じような葛藤が中国人にもありました。ここで、中国人は自分たちの祖先崇拝の考え方を仏教に付け加えたのです。お経は、キリスト教の聖書にあたる、仏教の教えを書いた書物です。仏教はインドのものですから、ほとんどのお経はもともと古代インドのサンスクリット語で書かれ、中国で中国語(漢文)に翻訳されたものです。ところが、現在存在するお経の中にはサンスクリット語の原典がないものがあります。これを「偽経」といいます。中国や日本で新たに書かれたお経のことを指すのです。ここに、中国人は祖先崇拝の気持ちを込めたお経を含めました。日本に入ってきた仏教は中国を経由していますから、日本の仏教にも最初から先祖崇拝の気持ちが込められていたわけです。

さて、このような経緯で、日本の仏教は先祖を大切にする考え方があるのです。お墓やお仏壇はその表れといえるでしょう。しかしなにより大きいのは、日本に住むわれわれがこれまでの歴史の中で積み重ねてきた習慣や意識の中に、「いま生きているわれわれは、いつもご先祖様に見守っていただいている。またわれわれは、その思いを届ける場としてのお墓やお仏壇を守り、心を込めてお手入れする」という思いがあることでしょう。日本人は家族や一族に対する思いが強く、それだけにお墓を築いてご先祖様をお祀りし、次の世代に引き継いでいくという習慣が身についているのです。

ご先祖様を祀る、ということは、仏教で決められた儀式をただ行えばいい、ということではありません。もちろん法事は大切なことですが、いちばん大事なのはいつも見守っていただいているご先祖様に折にふれて感謝し、その気持ちを受け継いでいくことでしょう。そのためのお墓、お仏壇ではないでしょうか。

おすすめのサイト:
しきたりや慣習にとらわれない自由な供養を 川崎市の墓地・霊園 “セントソフィアガーデン川崎”