永代供養墓とは

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pl-2014294220234お墓を維持していくのは難しい……というのは、何度かお話してきました。
家族感の変化、東京への一極集中など遠因はいくつもありますが、直接的な原因になるのは「お墓を守る人がいないこと」。世代を越えてお墓を守り続ける、という文化自体が、今の日本では持続していくのが難しいことになってしまったといえるでしょう。お墓を守る人がいない=「無縁」になる、ということは、できれば避けたいことです。
そこで最近注目を集めているのが、「永代供養墓」です。
「永代供養」という言葉自体はこれまでのお墓に関係してもよく使われており、このブログでも何度か登場しています。その言葉の通り「永代=孫子の代まで」供養を続ける、ことを意味します。しかし先に述べたように、すでに日本の現状は子孫が墓を守り続けるという仕組みを許さなくなってきました。

ではここで、日本の歴史におけるお墓の守り方の変遷を、お墓にかかわる法律や規則の面から見てみましょう。
江戸時代、お寺の境内にあった寺院墓地はお寺の領地でした。しかし明治維新後に官有地とされ、さらに地方自治体の所有地になったのです。お寺は、それまでの慣習上管理を行うだけの立場になりました。さらに東京では、大正時代の大規模な都市計画の都合上、寺院墓地の中でも特に由緒のあるもの以外はすべて郊外に移転されることになりました。東京市(戦前は東京都・23区ではなく、東京府・東京市という行政区分でした)の寺院墓地を整理・移転するために作られたのが、現在の多磨霊園です。
関東大震災後には、237か所の寺院墓地、墓石の数にして実に33万基以上が移転改葬のために掘り返され、その際には過去の災害や飢饉で亡くなったとされるお骨がたくさん見つかったと言います。これらはすべて「無縁のほとけさま」ということになりますね。

「無縁」という言葉が法律上にはじめて登場するのが、大正13年の「納骨堂取締規則」です。ここれは「無縁の遺骨を合納(複数のご遺骨を合わせて納骨すること)する場合は警察署の許可を得ること」と書かれています。昭和7年には「墓地および埋葬取締細則」が制定されます。これによって、無縁になってしまったお墓をどう処理すればよいかが明確に定まりました。つまり、「永代供養」が崩れる可能性について、行政が明確に認識を示したことになります。しかしこの時点では、あくまで例外であり、祭祀が途絶えることは不幸なことだ、という認識がありました。
戦後昭和23年になると「墓地、埋葬などに関する法律」が制定され、さらに平成10年にはこの法律の具体的な運用を定めた施行規則が改正されました。昭和7年の法律では無縁墓の改葬のためには「全国紙に広告を出す」などの規定があり困難でしたが、平成10年の段階ではかなり現実的に緩和されています。その背景には、先ほどから述べている祭祀を継承する家族という仕組みの変質があるとされています。

このような法律と世の中の変遷をうけて、1990年代から「永代供養墓」、つまり子孫による祭祀の継承=お墓を守っていくことが不要で、お墓の管理者がお守りするのが前提となる「合葬墓」が登場してくるのです。

「永代供養墓」の実際

明治以前にも、合葬墓といえるスタイルのお墓はありました。それは旅人や住む場所がない人など、はじめから無縁である人を、町の役人などがお寺に依頼して合葬するお墓です。古い言葉で「無縁仏」と呼ぶものです。
しかし現在の永代供養墓はこれとはまったく異なります。無縁だからしかたなく、ではなく、はじめから子孫や家族に対する祭祀の負担をなくすために、積極的に選ぶものです。こういう形のものですから、生前に申し込むことが基本になります。管理運営する側は、納骨された建物を保守・管理し、お盆やお彼岸などに合同で法要を行う形になります。合祀墓、永代納骨堂、俱会一処墓、合葬式墓所、永代祭祀塔など、管理運営する寺院や宗教団体などによって呼び名はさまざまにありますが、基本的には同じ仕組みです。
永代供養墓には納骨堂型、霊廟型、地下・半地下型、小さな墓石を墓地に並べる個別墓型、集合墓型など多くのスタイルがありますが、最も多いのが納骨堂を共同で利用するタイプです。個別墓型や霊廟型は、ご遺骨を納める納骨室(カロート)などに個別に納めますが、そのほかのタイプでは一つの大きな納骨室にお納めします。骨壺のままお納めする場合と、ご遺骨を土に埋める場合とがあります。たとえ骨壺のままお納めしたとしても、三十三回忌後もしくはお納めしてから30年後などには骨壺から出して土に還す場合がほとんどです。
通常のお墓では、そのお墓に誰が納められているかを記す「墓誌」があります。合葬墓である永代供養墓にも、同様に石板や石塔などに納骨された人のお名前を刻んでおきます。さまざまな形がありますが、ちょうど記念碑などに刻まれるようなものだと思っておくとよいでしょう。また、個別に小さな石板に刻んで掲げたり、小さな墓石のような石碑を建てる場合もあります。これとは別に、お墓の管理者は過去帳への記載や墓籍簿への記録を確実に残すこと、という法的義務もあるのです。

さて、実際に永代供養墓を利用するときにまず気になるのは料金でしょう。永代供養墓はまだ登場したばかりですし、相場のようなものがあるわけではありません。納骨の方法、墓誌や供養の方法などさまざまな要素があり、価格には大きな開きがあります。安いものは10万円台からありますが、高いものだと数百万円と、霊園を確保してお墓を建立するのとあまり変わらない費用がかかるものもあります。とはいえ、数十万円~100万円程度を考えておけばよいでしょう。普通にお墓を建てるよりは、安くつくと考えられます。
運営主体がお寺の場合は、やはり檀家になる必要があったり、その寺院に帰依する必要がある場合もあります。申し込む前に確認しておきましょう。公営の場合は、そのような制限はありません。東京都が運営する小平霊園には、地下納骨堂を持つ合葬型墓地がつくられ、3000柱のご遺骨が安置されています。また、多磨霊園にも同様の合葬型墓地が造られました。神奈川県の日野公園墓地は、6000柱を安置するスペースがあります。さいたま市の思いでの里市営霊園、千葉県市川市の市川市営霊園などにも、合葬型墓地が用意されています。今後の需要の高まりを考えると、公営の永代供養墓は都市部を中心にもっと増えてくるのではないでしょうか。

おすすめのサイト:
東京、埼玉、千葉、神奈川の永代供養墓なら”博愛の絆”
スタイルを選べる 埼玉県川越市の永代供養墓”鶴ヶ島さくら並木霊園”

永代供養墓とは

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pl-2014294220234お墓を維持していくのは難しい……というのは、何度かお話してきました。
家族感の変化、東京への一極集中など遠因はいくつもありますが、直接的な原因になるのは「お墓を守る人がいないこと」。世代を越えてお墓を守り続ける、という文化自体が、今の日本では持続していくのが難しいことになってしまったといえるでしょう。お墓を守る人がいない=「無縁」になる、ということは、できれば避けたいことです。
そこで最近注目を集めているのが、「永代供養墓」です。
「永代供養」という言葉自体はこれまでのお墓に関係してもよく使われており、このブログでも何度か登場しています。その言葉の通り「永代=孫子の代まで」供養を続ける、ことを意味します。しかし先に述べたように、すでに日本の現状は子孫が墓を守り続けるという仕組みを許さなくなってきました。

ではここで、日本の歴史におけるお墓の守り方の変遷を、お墓にかかわる法律や規則の面から見てみましょう。
江戸時代、お寺の境内にあった寺院墓地はお寺の領地でした。しかし明治維新後に官有地とされ、さらに地方自治体の所有地になったのです。お寺は、それまでの慣習上管理を行うだけの立場になりました。さらに東京では、大正時代の大規模な都市計画の都合上、寺院墓地の中でも特に由緒のあるもの以外はすべて郊外に移転されることになりました。東京市(戦前は東京都・23区ではなく、東京府・東京市という行政区分でした)の寺院墓地を整理・移転するために作られたのが、現在の多磨霊園です。
関東大震災後には、237か所の寺院墓地、墓石の数にして実に33万基以上が移転改葬のために掘り返され、その際には過去の災害や飢饉で亡くなったとされるお骨がたくさん見つかったと言います。これらはすべて「無縁のほとけさま」ということになりますね。

「無縁」という言葉が法律上にはじめて登場するのが、大正13年の「納骨堂取締規則」です。ここれは「無縁の遺骨を合納(複数のご遺骨を合わせて納骨すること)する場合は警察署の許可を得ること」と書かれています。昭和7年には「墓地および埋葬取締細則」が制定されます。これによって、無縁になってしまったお墓をどう処理すればよいかが明確に定まりました。つまり、「永代供養」が崩れる可能性について、行政が明確に認識を示したことになります。しかしこの時点では、あくまで例外であり、祭祀が途絶えることは不幸なことだ、という認識がありました。
戦後昭和23年になると「墓地、埋葬などに関する法律」が制定され、さらに平成10年にはこの法律の具体的な運用を定めた施行規則が改正されました。昭和7年の法律では無縁墓の改葬のためには「全国紙に広告を出す」などの規定があり困難でしたが、平成10年の段階ではかなり現実的に緩和されています。その背景には、先ほどから述べている祭祀を継承する家族という仕組みの変質があるとされています。

このような法律と世の中の変遷をうけて、1990年代から「永代供養墓」、つまり子孫による祭祀の継承=お墓を守っていくことが不要で、お墓の管理者がお守りするのが前提となる「合葬墓」が登場してくるのです。

「永代供養墓」の実際

明治以前にも、合葬墓といえるスタイルのお墓はありました。それは旅人や住む場所がない人など、はじめから無縁である人を、町の役人などがお寺に依頼して合葬するお墓です。古い言葉で「無縁仏」と呼ぶものです。
しかし現在の永代供養墓はこれとはまったく異なります。無縁だからしかたなく、ではなく、はじめから子孫や家族に対する祭祀の負担をなくすために、積極的に選ぶものです。こういう形のものですから、生前に申し込むことが基本になります。管理運営する側は、納骨された建物を保守・管理し、お盆やお彼岸などに合同で法要を行う形になります。合祀墓、永代納骨堂、俱会一処墓、合葬式墓所、永代祭祀塔など、管理運営する寺院や宗教団体などによって呼び名はさまざまにありますが、基本的には同じ仕組みです。
永代供養墓には納骨堂型、霊廟型、地下・半地下型、小さな墓石を墓地に並べる個別墓型、集合墓型など多くのスタイルがありますが、最も多いのが納骨堂を共同で利用するタイプです。個別墓型や霊廟型は、ご遺骨を納める納骨室(カロート)などに個別に納めますが、そのほかのタイプでは一つの大きな納骨室にお納めします。骨壺のままお納めする場合と、ご遺骨を土に埋める場合とがあります。たとえ骨壺のままお納めしたとしても、三十三回忌後もしくはお納めしてから30年後などには骨壺から出して土に還す場合がほとんどです。
通常のお墓では、そのお墓に誰が納められているかを記す「墓誌」があります。合葬墓である永代供養墓にも、同様に石板や石塔などに納骨された人のお名前を刻んでおきます。さまざまな形がありますが、ちょうど記念碑などに刻まれるようなものだと思っておくとよいでしょう。また、個別に小さな石板に刻んで掲げたり、小さな墓石のような石碑を建てる場合もあります。これとは別に、お墓の管理者は過去帳への記載や墓籍簿への記録を確実に残すこと、という法的義務もあるのです。

さて、実際に永代供養墓を利用するときにまず気になるのは料金でしょう。永代供養墓はまだ登場したばかりですし、相場のようなものがあるわけではありません。納骨の方法、墓誌や供養の方法などさまざまな要素があり、価格には大きな開きがあります。安いものは10万円台からありますが、高いものだと数百万円と、霊園を確保してお墓を建立するのとあまり変わらない費用がかかるものもあります。とはいえ、数十万円~100万円程度を考えておけばよいでしょう。普通にお墓を建てるよりは、安くつくと考えられます。
運営主体がお寺の場合は、やはり檀家になる必要があったり、その寺院に帰依する必要がある場合もあります。申し込む前に確認しておきましょう。公営の場合は、そのような制限はありません。東京都が運営する小平霊園には、地下納骨堂を持つ合葬型墓地がつくられ、3000柱のご遺骨が安置されています。また、多磨霊園にも同様の合葬型墓地が造られました。神奈川県の日野公園墓地は、6000柱を安置するスペースがあります。さいたま市の思いでの里市営霊園、千葉県市川市の市川市営霊園などにも、合葬型墓地が用意されています。今後の需要の高まりを考えると、公営の永代供養墓は都市部を中心にもっと増えてくるのではないでしょうか。

おすすめのサイト:
東京、埼玉、千葉、神奈川の永代供養墓なら”博愛の絆”
スタイルを選べる 埼玉県川越市の永代供養墓”鶴ヶ島さくら並木霊園”