墓石の歴史① 〜檀家制度と庶民への浸透

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「お墓」と言えば、墓石形態のものを思い浮かべる方が圧倒的に多いと思います。
刻字された棹石に、綺麗に形作られた水鉢や花立・香炉、埋葬された人の名前が書かれた墓誌、しっかり建てられた外柵、などなど--。
現在のような「お墓」の形はいつから定着するようになったのでしょうか?

お墓は特定の人々が持てるもの

『広辞苑』(第6版)によると、「墓」は「死者の遺骸や遺骨を葬った所」そのものと定義しています。つまり場所としての規定しかなされておらず、墓石を必要とする文言は入っていません。そうなると、土の下に遺骨を埋め、目印としてその上に盛り土をしただけでもそこは「お墓」として捉えられるのです。
そもそも庶民がお墓を持つようになったのは江戸時代に入ってからのこと。それまでは、お墓を持つことができたのは特権階級の人間に限られていました。天皇家に限られますが古墳は代表的なものですし、戦国武将や歴史上の有名人のお墓参りをされる方も少なくないですよね。ですが、庶民は共同墓地に埋葬されることが多かったので、お墓自体持ってはいませんでした。

庶民とお墓のつながり

庶民がお墓を持つようになった大きな理由は、江戸幕府により「檀家制度」が敷かれたからです。お墓のあり方を考えると機、「檀家制度」を避けては通れません。
「檀家制度」には、キリシタンでないことを示す身分証明が主な目的の「寺請制度」が根幹にありますが、転じて住居歴・職歴・結婚に関するあらゆる個人情報を示す制度として機能することになります。これら履歴を「寺請証文」として発行することにより、本人の身分を保証してくれました。
江戸時代の檀家は、寺院の経営を支える組織として存在していたためお寺の経営は安定するようになりましたが、そのため次第に資金集めに腐心するようになっていきます。寺院・僧侶の堕落ぶりが顕著になっていき、結果として汚職が蔓延ってしまう原因となっていってしまいました。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という過激な言葉が生まれた背景には、こんな歴史があったのです。

墓石の浸透

さて、「庶民がお墓を持つようになった」とはいうものの、当然現代のような立派な墓石を持てた訳ではありません。何より石材は庶民には手が出せない高価なものなので、それとわかる石をそのまま置いたり、卒塔婆に俗名を書くだけといった簡素な作りのものが多かったようですが、これが現在の墓石の原型になっていると考えられます。

墓石の歴史① 〜檀家制度と庶民への浸透

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「お墓」と言えば、墓石形態のものを思い浮かべる方が圧倒的に多いと思います。
刻字された棹石に、綺麗に形作られた水鉢や花立・香炉、埋葬された人の名前が書かれた墓誌、しっかり建てられた外柵、などなど--。
現在のような「お墓」の形はいつから定着するようになったのでしょうか?

お墓は特定の人々が持てるもの

『広辞苑』(第6版)によると、「墓」は「死者の遺骸や遺骨を葬った所」そのものと定義しています。つまり場所としての規定しかなされておらず、墓石を必要とする文言は入っていません。そうなると、土の下に遺骨を埋め、目印としてその上に盛り土をしただけでもそこは「お墓」として捉えられるのです。
そもそも庶民がお墓を持つようになったのは江戸時代に入ってからのこと。それまでは、お墓を持つことができたのは特権階級の人間に限られていました。天皇家に限られますが古墳は代表的なものですし、戦国武将や歴史上の有名人のお墓参りをされる方も少なくないですよね。ですが、庶民は共同墓地に埋葬されることが多かったので、お墓自体持ってはいませんでした。

庶民とお墓のつながり

庶民がお墓を持つようになった大きな理由は、江戸幕府により「檀家制度」が敷かれたからです。お墓のあり方を考えると機、「檀家制度」を避けては通れません。
「檀家制度」には、キリシタンでないことを示す身分証明が主な目的の「寺請制度」が根幹にありますが、転じて住居歴・職歴・結婚に関するあらゆる個人情報を示す制度として機能することになります。これら履歴を「寺請証文」として発行することにより、本人の身分を保証してくれました。
江戸時代の檀家は、寺院の経営を支える組織として存在していたためお寺の経営は安定するようになりましたが、そのため次第に資金集めに腐心するようになっていきます。寺院・僧侶の堕落ぶりが顕著になっていき、結果として汚職が蔓延ってしまう原因となっていってしまいました。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という過激な言葉が生まれた背景には、こんな歴史があったのです。

墓石の浸透

さて、「庶民がお墓を持つようになった」とはいうものの、当然現代のような立派な墓石を持てた訳ではありません。何より石材は庶民には手が出せない高価なものなので、それとわかる石をそのまま置いたり、卒塔婆に俗名を書くだけといった簡素な作りのものが多かったようですが、これが現在の墓石の原型になっていると考えられます。