神道のお墓とは?

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神道式のお墓は明治維新後から

日本のお墓のほとんどは仏教式で、お寺の敷地内に建っています。確かに仏教は日本ではもっともメジャーな宗教といえますが、お寺と同じように神社だって街中にたくさんあります。なぜ、お寺にはお墓がつきもので、神社にはないのでしょうか。

神道

江戸時代、幕府の政策によりほとんどの日本人は地域のお寺の檀家になりました。これは隠れキリシタン対策など宗教的な意味もありましたが、実際には庶民の戸籍を管理し、勝手にほかの土地へ移動したりしないようにするための仕組みでした。当時の身分証明書は、「この人は○○寺の檀家です」ということを証明する「寺請証文」でした。たとえば農村の子供が江戸に奉公に出る、隣村にお嫁に行く、などの場合には、お寺が寺請証文を発行し、本人に持たせたということです。当時のお寺は役所の戸籍係、住民課の仕事を兼任していたようなもので、それだけ庶民の生活に密着していたのですね。

また、江戸時代に至るまでの日本の歴史の中で、神道の神様と仏教の仏様は同じものだと考えられるようになっていました。奈良時代に仏教が日本に伝来したときに、当時の日本人たちは「仏様はえらいが、日本の神様もえらい。対立するのではなく、なんとかうまくやっていけないか」と考えました。そこで考え出されたのが、「日本の神様は、実は仏様が姿を変えて日本に現れていたんだ」という思想です。これで、仏様と神様はケンカをしなくてもすむようになったのです。お参りする場所もほとんど一緒、神社の敷地内にお寺があったり、お寺の境内に神社の鳥居があるような風景はどこででも見ることができました。

さて、歴史は流れて明治時代。明治維新では、幕府を倒して新しい政府を創ろうという志士たちの政治的な改革に加え、さまざまな分野での新しい文化の動きがありました。その中で、「日本古来の教えである神道を強力に推し進めよう」と考えた人々がいました。彼らは明治新政府に協力していたので、明治新政府側も彼らの要望に応えます。先にふれたように、江戸時代までは神道と仏教の間はそこまで厳密に分かれてはいなかったのですが、明治新政府は神道の神社と仏教のお寺をハッキリわけるように、と命令を出します。その結果、神社と寺は別の施設として、敷地も分かれるようになりました。

この時代の著名人たちは、仏教式ではなく神道式のお墓を作り、そこに入ろうとします。しかし実際問題として、神社にはお墓の用地はありません。そこで明治新政府は、新しく神道式のお墓をつくることができる墓地・霊園を作ります。これが、現在東京にある谷中霊園や青山墓地のはじまりなのです。青山墓地には明治維新を成し遂げた薩摩の大物・大久保利通が、谷中霊園には徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜が、それぞれ神道式のお墓に眠っています。

神道式お墓の特徴

徳川慶喜の神道式お墓は、非常に特徴的。半球状の盛り土に丸石が敷き詰められ、お墓というよりもちいさな古墳のようです。これは、徳川慶喜が生前明治天皇から従一位公爵という高い位を授かったことに感謝し、皇族のような古墳型の墓を作るようにと遺言したためだとのこと。大久保利通の神道式お墓は、なによりもその竿石の高さが目を引きます。白い花崗岩で作られた竿石は、なんと高さ5メートル。その威容は、さすが明治新政府を一人で切り回した辣腕政治家ならではです。

さて、現代作られている神道式のお墓にはどんな特徴があるでしょうか。かたちとしては、竿石が細長い角柱型で、上部がトキン型または平らな一文字型になっています。「トキン」とは漢字では「兜巾」。時代劇に出てくる山伏がかぶっているずきんのことで、先端がとがった三角錐型のことです。また、神道式では焼香はしないので、香炉はありません。代わりにろうそく立てや八足台を設置します。最大の特徴は、表面に彫られる文字。仏教式では「○○家ノ墓」「先祖代々之墓」などと彫られますが、神道式は「○○家奥津城」となります。戒名ではなく、俗名に「○○○○霊位」「○○○○刀自命」「○○○○大人命」などの敬称がつきます。

まだまだ数は少ないのですが。お寺との縁があまり深くない人などさまざまな方が神道式のお墓を建てるようになっています。決まった檀家さんがいない場合は、ちょっと趣を変えて神道風のお墓を検討してみてはどうでしょう。

神道のお墓とは?

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神道式のお墓は明治維新後から

日本のお墓のほとんどは仏教式で、お寺の敷地内に建っています。確かに仏教は日本ではもっともメジャーな宗教といえますが、お寺と同じように神社だって街中にたくさんあります。なぜ、お寺にはお墓がつきもので、神社にはないのでしょうか。

神道

江戸時代、幕府の政策によりほとんどの日本人は地域のお寺の檀家になりました。これは隠れキリシタン対策など宗教的な意味もありましたが、実際には庶民の戸籍を管理し、勝手にほかの土地へ移動したりしないようにするための仕組みでした。当時の身分証明書は、「この人は○○寺の檀家です」ということを証明する「寺請証文」でした。たとえば農村の子供が江戸に奉公に出る、隣村にお嫁に行く、などの場合には、お寺が寺請証文を発行し、本人に持たせたということです。当時のお寺は役所の戸籍係、住民課の仕事を兼任していたようなもので、それだけ庶民の生活に密着していたのですね。

また、江戸時代に至るまでの日本の歴史の中で、神道の神様と仏教の仏様は同じものだと考えられるようになっていました。奈良時代に仏教が日本に伝来したときに、当時の日本人たちは「仏様はえらいが、日本の神様もえらい。対立するのではなく、なんとかうまくやっていけないか」と考えました。そこで考え出されたのが、「日本の神様は、実は仏様が姿を変えて日本に現れていたんだ」という思想です。これで、仏様と神様はケンカをしなくてもすむようになったのです。お参りする場所もほとんど一緒、神社の敷地内にお寺があったり、お寺の境内に神社の鳥居があるような風景はどこででも見ることができました。

さて、歴史は流れて明治時代。明治維新では、幕府を倒して新しい政府を創ろうという志士たちの政治的な改革に加え、さまざまな分野での新しい文化の動きがありました。その中で、「日本古来の教えである神道を強力に推し進めよう」と考えた人々がいました。彼らは明治新政府に協力していたので、明治新政府側も彼らの要望に応えます。先にふれたように、江戸時代までは神道と仏教の間はそこまで厳密に分かれてはいなかったのですが、明治新政府は神道の神社と仏教のお寺をハッキリわけるように、と命令を出します。その結果、神社と寺は別の施設として、敷地も分かれるようになりました。

この時代の著名人たちは、仏教式ではなく神道式のお墓を作り、そこに入ろうとします。しかし実際問題として、神社にはお墓の用地はありません。そこで明治新政府は、新しく神道式のお墓をつくることができる墓地・霊園を作ります。これが、現在東京にある谷中霊園や青山墓地のはじまりなのです。青山墓地には明治維新を成し遂げた薩摩の大物・大久保利通が、谷中霊園には徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜が、それぞれ神道式のお墓に眠っています。

神道式お墓の特徴

徳川慶喜の神道式お墓は、非常に特徴的。半球状の盛り土に丸石が敷き詰められ、お墓というよりもちいさな古墳のようです。これは、徳川慶喜が生前明治天皇から従一位公爵という高い位を授かったことに感謝し、皇族のような古墳型の墓を作るようにと遺言したためだとのこと。大久保利通の神道式お墓は、なによりもその竿石の高さが目を引きます。白い花崗岩で作られた竿石は、なんと高さ5メートル。その威容は、さすが明治新政府を一人で切り回した辣腕政治家ならではです。

さて、現代作られている神道式のお墓にはどんな特徴があるでしょうか。かたちとしては、竿石が細長い角柱型で、上部がトキン型または平らな一文字型になっています。「トキン」とは漢字では「兜巾」。時代劇に出てくる山伏がかぶっているずきんのことで、先端がとがった三角錐型のことです。また、神道式では焼香はしないので、香炉はありません。代わりにろうそく立てや八足台を設置します。最大の特徴は、表面に彫られる文字。仏教式では「○○家ノ墓」「先祖代々之墓」などと彫られますが、神道式は「○○家奥津城」となります。戒名ではなく、俗名に「○○○○霊位」「○○○○刀自命」「○○○○大人命」などの敬称がつきます。

まだまだ数は少ないのですが。お寺との縁があまり深くない人などさまざまな方が神道式のお墓を建てるようになっています。決まった檀家さんがいない場合は、ちょっと趣を変えて神道風のお墓を検討してみてはどうでしょう。