葬儀とお墓の風習~北海道編

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08de41014bae4effc08dc426cece7179_s北海道は、沖縄同様明治維新までは日本本土とは若干扱いの違う、なかば外国のような土地柄でした。江戸時代には松前藩が置かれてアイヌの人々との交易を独占し、日本の出先機関のような存在となっていました。幕末には函館に当時最先端の洋式城郭・五稜郭が築かれ、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いだった函館戦争の舞台になっています。新選組の土方歳三が最期を迎えたのも、函館でした。

戊辰戦争の後、明治2年になると新政府はそれまでの「蝦夷地」という名前を「北海道」と改めます。その後北海道の発展を目指して開拓使や屯田兵の設置や内地からの移民が行われ、明治初年には6万人内外だった人口は1945年には350万人を超え、2000年には568万人となっています。明治以降、日本中から多くの人々が移住を繰り返した土地柄だけに、風習も一種独特。さまざまなルーツを持つ人々が集まっているために、合理的な習慣が多いと言われています。もちろん、お葬式やお墓についても北海道独自のものがあります。

まず面食らうのが、お香典に対して領収書が発行されること。また、受付で記入する芳名帳もありません。お香典を渡すと、領収書を発行するためにその場で内容を確認されます。内袋に名前と住所、金額まできちんと書いておく風習があるために、芳名帳もいらないということなのです。
また、香典返しもありません。代わりに会葬御礼として、1000円程度の粗品や金券をお渡しします。

火葬と葬儀の順番は地域によっていろいろ。通夜・葬儀・火葬か、通夜・火葬・葬儀かに分かれますが、函館など北海道の道南地域ではお通夜より前に火葬を営みます。どうしてこの順番で行うかは諸説ありますが、よく言われるのが昭和29年9月末に来襲した洞爺丸台風以来だ、というもの。

洞爺丸台風は、9月26日に鹿児島県に上陸。かなり勢力が強く足の速い台風で、九州から中国地方を横断して日本海に出ます。日本海を時速100㎞の高速で北東に進んだ台風は勢力を増し、26日21時には中心気圧956ヘクトパスカルを観測します。この台風は雨はほとんど降らさず、強烈な風を巻き起こすいわゆる「風台風」でした。寿都町では最大瞬間風速53.2m、室蘭では55mに達する暴風が吹き荒れます。これによって岩内町では火災が発生して3000戸を超す家屋が焼け、支笏湖付近では山野に自生していた木が根こそぎ倒れました。

c988f5adeebe6ac5f81134e7dbc157d1_sもっとも多くの人的被害を出したのが、青函連絡船の遭難です。
青函連絡船洞爺丸は、第二次大戦で壊滅的な被害を受けた青函連絡航路の復興のために建造された4隻の客船のうちの1隻です。戦争中、青函連絡船はアメリカ軍によって集中的に攻撃され、すべての連絡船は稼働不能になりました。そのため北海道と本土はほとんど連絡途絶となったのです。終戦後、多くの人と貨物が青函航路に集中しますが、この当時動いていた船は3隻、しかも輸送能力は十分ではありません。青函航路を運営する国鉄は全国から船を集めますが、設備や積載能力が十分ではなく、旅客と貨物をさばききれません。また、青函航路での輸送や旅客は進駐軍優先とされていましたから、日本人向けの輸送力は不足が続いていたのです。昭和21年、運輸省はGHQとの交渉して車両と乗客を運ぶ船の建造許可をとりつけました。そこで建造されたのが、洞爺丸と4隻の青函連絡船だったのです。急ピッチで建造された洞爺丸は、昭和22年9月に青函航路に就航しました。

昭和29年9月26日18時30分、台風の風が弱まって晴れ間が見え、それを台風の目だと判断した洞爺丸は旅客と貨物、列車車両を積んで函館港を出港します。しかし実際は台風本体はまだ西方海上にあり、これから北海道へと向かってくるところでした。強風と高波のために船内に海水が流入し、ボイラーが停止して操船できなくなり座礁、転覆。乗員乗客1155名が死亡しました。救助されたのはわずか159名で、日本の海難事故としては史上最大、世界の海難事故でも3番目の犠牲者を数える痛ましい事件でした。

このときにあまりにも多くの葬儀を出さなければならなくなったために、函館などの道南地区では「まず火葬」という文化がはじまったとされているのです。しかも洞爺丸事故は9月末の暑い時期であり、火葬は急がねばなりませんでした。

古くから伝わっている風習やならわしにはさまざまな意味合いがありますが、北海道の葬儀の風習には道民ならではの合理性と、悲しい大災害というバックボーンがあったようです。

葬儀とお墓の風習~北海道編

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08de41014bae4effc08dc426cece7179_s北海道は、沖縄同様明治維新までは日本本土とは若干扱いの違う、なかば外国のような土地柄でした。江戸時代には松前藩が置かれてアイヌの人々との交易を独占し、日本の出先機関のような存在となっていました。幕末には函館に当時最先端の洋式城郭・五稜郭が築かれ、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いだった函館戦争の舞台になっています。新選組の土方歳三が最期を迎えたのも、函館でした。

戊辰戦争の後、明治2年になると新政府はそれまでの「蝦夷地」という名前を「北海道」と改めます。その後北海道の発展を目指して開拓使や屯田兵の設置や内地からの移民が行われ、明治初年には6万人内外だった人口は1945年には350万人を超え、2000年には568万人となっています。明治以降、日本中から多くの人々が移住を繰り返した土地柄だけに、風習も一種独特。さまざまなルーツを持つ人々が集まっているために、合理的な習慣が多いと言われています。もちろん、お葬式やお墓についても北海道独自のものがあります。

まず面食らうのが、お香典に対して領収書が発行されること。また、受付で記入する芳名帳もありません。お香典を渡すと、領収書を発行するためにその場で内容を確認されます。内袋に名前と住所、金額まできちんと書いておく風習があるために、芳名帳もいらないということなのです。
また、香典返しもありません。代わりに会葬御礼として、1000円程度の粗品や金券をお渡しします。

火葬と葬儀の順番は地域によっていろいろ。通夜・葬儀・火葬か、通夜・火葬・葬儀かに分かれますが、函館など北海道の道南地域ではお通夜より前に火葬を営みます。どうしてこの順番で行うかは諸説ありますが、よく言われるのが昭和29年9月末に来襲した洞爺丸台風以来だ、というもの。

洞爺丸台風は、9月26日に鹿児島県に上陸。かなり勢力が強く足の速い台風で、九州から中国地方を横断して日本海に出ます。日本海を時速100㎞の高速で北東に進んだ台風は勢力を増し、26日21時には中心気圧956ヘクトパスカルを観測します。この台風は雨はほとんど降らさず、強烈な風を巻き起こすいわゆる「風台風」でした。寿都町では最大瞬間風速53.2m、室蘭では55mに達する暴風が吹き荒れます。これによって岩内町では火災が発生して3000戸を超す家屋が焼け、支笏湖付近では山野に自生していた木が根こそぎ倒れました。

c988f5adeebe6ac5f81134e7dbc157d1_sもっとも多くの人的被害を出したのが、青函連絡船の遭難です。
青函連絡船洞爺丸は、第二次大戦で壊滅的な被害を受けた青函連絡航路の復興のために建造された4隻の客船のうちの1隻です。戦争中、青函連絡船はアメリカ軍によって集中的に攻撃され、すべての連絡船は稼働不能になりました。そのため北海道と本土はほとんど連絡途絶となったのです。終戦後、多くの人と貨物が青函航路に集中しますが、この当時動いていた船は3隻、しかも輸送能力は十分ではありません。青函航路を運営する国鉄は全国から船を集めますが、設備や積載能力が十分ではなく、旅客と貨物をさばききれません。また、青函航路での輸送や旅客は進駐軍優先とされていましたから、日本人向けの輸送力は不足が続いていたのです。昭和21年、運輸省はGHQとの交渉して車両と乗客を運ぶ船の建造許可をとりつけました。そこで建造されたのが、洞爺丸と4隻の青函連絡船だったのです。急ピッチで建造された洞爺丸は、昭和22年9月に青函航路に就航しました。

昭和29年9月26日18時30分、台風の風が弱まって晴れ間が見え、それを台風の目だと判断した洞爺丸は旅客と貨物、列車車両を積んで函館港を出港します。しかし実際は台風本体はまだ西方海上にあり、これから北海道へと向かってくるところでした。強風と高波のために船内に海水が流入し、ボイラーが停止して操船できなくなり座礁、転覆。乗員乗客1155名が死亡しました。救助されたのはわずか159名で、日本の海難事故としては史上最大、世界の海難事故でも3番目の犠牲者を数える痛ましい事件でした。

このときにあまりにも多くの葬儀を出さなければならなくなったために、函館などの道南地区では「まず火葬」という文化がはじまったとされているのです。しかも洞爺丸事故は9月末の暑い時期であり、火葬は急がねばなりませんでした。

古くから伝わっている風習やならわしにはさまざまな意味合いがありますが、北海道の葬儀の風習には道民ならではの合理性と、悲しい大災害というバックボーンがあったようです。