神道のお墓

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560fc49419cbb2a652449090500f4808_s今回は、いきなりお墓やお葬式の話ではなく、ちょっとおめでたいところからお話を始めましょう。「冠婚葬祭」のめでたいほう、結婚式についてです。

結婚式にはさまざまな形式があります。高度経済成長期以降は神父や牧師が司るキリスト教式や、それを模した結婚式が主流でした。近年は宗教色を排した人前式が増えてきていますね。日本で「結婚式」を行うことが一般化し始めたのが、明治33年の皇太子(のちの大正天皇)の婚礼からです。これ以前は、皇族でさえも結婚については法的な定めがなかったのです。三々九度の盃ごとなどは、この時に定められました。民間では、明治25年に東京白蓮社会堂で行われた仏教式の結婚式、明治30年に東京大神宮で行われた神道式の結婚式がはじめと言われています。そもそも結婚式に宗教的なものが持ち込まれたのは明治維新後のことで、それ以前は「祝言」であり、親戚一同や自宅付近の方々の前で行う、いわゆる「人前式」でもあるのです。いってみれば、最近の人前式ブームは先祖がえりということですね。

6b3f81f7fab01fe2216fcec4c5493b2e_sさてこのように、結婚と宗教の距離感は時代によって変遷してきました。それではお葬式やお墓についてはどうでしょうか。
「人の死」は、古くから畏れの対象でした。「人はなぜ死ぬのか、死んだらどうなるのか」という謎は、あらゆる文明の説話にさまざまな形で書き記されています。
日本神話でも、日本の国を産み出したイザナギとイザナミの夫婦が死に別れ、イザナギが亡き妻を探して死後の世界に降っていくお話があります。死後の国の食べ物を食べてしまったイザナミは恐ろしい姿に変わってしまい、それを見たイザナギは恐れて逃げ出します。イザナギが後を追ってきたイザナミから逃れるために巨大な岩で道をふさぐと、イザナミは「お前の国の人間を毎日千人殺してやる」と呪います。するとイザナギは「では毎日千五百人の人間が生まれるようにしよう」と応えました。これで人間の世界では、毎日赤ん坊が生まれる一方で死んでいく人たちもでるようになった、ということです。

日本だけでなく、ほとんどの古い神話では死は「恐ろしいもの」で、「避けたいもの」でした。これに「死んだら極楽に行ける」「最後の審判で蘇ることができる」という概念を持ち込んだ宗教が、古代や中世の人々の気持ちを安らかにすることができた、というのは注目しておくべきところでしょう。

さてここからわかるように、日本神話やそこにルーツを持つ神道においては、「死」は不浄なものです。イザナミのような神様であっても、死後の世界に行ってしまえば「一日千人を呪い殺す」という恐ろしい存在に変化してしまう。つまり、お葬式やお墓という死にまつわるものは、日本の神道においては恐るべきもの、タブーだったといえるでしょう。うらみを残して死んだ人は怨霊となって現世にたたりをもたらすので、神社ではそのような怨霊を神として祀り、その霊を慰めます。有名なところでいくと神田明神(平将門)、太宰府天満宮(菅原道真)でしょうか。「亡くなった人の霊を慰める」という意味では、明治維新以来の戦没者を祀った靖国神社もその一種といえるでしょうか。
仏教では亡くなった人はみな仏様になりますが、神道ではあまり明確な定義がありません。といいますか、仏教におけるお経、キリスト教における聖書のような、神道の教えを書いたありがたい教典というものは存在しないのです。そういう意味では、神道は宗教というよりも先祖崇拝を中心とした日本の古い民俗的風習の集合体なのです。

神道がこのような考え方である一方、仏教は日本では長くお葬式と埋葬、お墓について独占している形でした。ほとんどの地方では、お寺の敷地内には檀家の方が眠るお墓があります。その一方で、死を穢れとして考える神社は、墓地や霊園は置かない……と長年考えられていましたが、近年神道式の霊園を開設した神社が出てきました。朝日新聞によれば、全国で50社を越える神社が霊園の運営を検討中だということです。

0c53467f874fd793750427e12335076b_s徳川家康を祀る栃木県の日光東照宮は、2014年から神道専用の霊園と宗教不問の霊園の両方を運営しています。これらは穢れを避ける境内とは別の土地を増設したもので、今後5000基ものお墓を開設する予定だとのこと。神社にはお寺でいう檀家のような存在として氏子がいますが、日光東照宮には氏子はいません。そのため将来的には収入面で不安がある、というところでもあるようです。
また、愛知県清須市の日吉神社も霊園を手掛けています。朝日新聞の写真を見ると、神道形式のお墓もありますが、中には「南無阿弥陀仏」と彫られた仏教系のお墓や、近年はやりのデザイン型墓石も見えます。こちらは神社の境内と隣り合っていますが、やはり塀でしっかりと区別されている模様。また東京の稲足神社は、通常の霊園区画に加えて二人分までのご遺骨をお納めできる納骨堂、四人分まで納められる永代祭祀墓も設けています。人気の霊園と比べても、設備の多様性では引けを取らないのではないでしょうか。
 霊園の運営は地方公共団体、宗教法人、公益法人だけに限られるのが一般的です。神社も宗教法人ですから、霊園を運営する側に回るのは当然ありうること。まだなかなかなじみは薄いことですが、神社によっては氏子から「神道を信奉する人が入るお墓も必要だ」という要請を受けて墓地を開発している、という場合もあります。背に腹は代えられない、というところも、また時代の要請だ、というところもあるのでしょうか。

神道のお墓

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560fc49419cbb2a652449090500f4808_s今回は、いきなりお墓やお葬式の話ではなく、ちょっとおめでたいところからお話を始めましょう。「冠婚葬祭」のめでたいほう、結婚式についてです。

結婚式にはさまざまな形式があります。高度経済成長期以降は神父や牧師が司るキリスト教式や、それを模した結婚式が主流でした。近年は宗教色を排した人前式が増えてきていますね。日本で「結婚式」を行うことが一般化し始めたのが、明治33年の皇太子(のちの大正天皇)の婚礼からです。これ以前は、皇族でさえも結婚については法的な定めがなかったのです。三々九度の盃ごとなどは、この時に定められました。民間では、明治25年に東京白蓮社会堂で行われた仏教式の結婚式、明治30年に東京大神宮で行われた神道式の結婚式がはじめと言われています。そもそも結婚式に宗教的なものが持ち込まれたのは明治維新後のことで、それ以前は「祝言」であり、親戚一同や自宅付近の方々の前で行う、いわゆる「人前式」でもあるのです。いってみれば、最近の人前式ブームは先祖がえりということですね。

6b3f81f7fab01fe2216fcec4c5493b2e_sさてこのように、結婚と宗教の距離感は時代によって変遷してきました。それではお葬式やお墓についてはどうでしょうか。
「人の死」は、古くから畏れの対象でした。「人はなぜ死ぬのか、死んだらどうなるのか」という謎は、あらゆる文明の説話にさまざまな形で書き記されています。
日本神話でも、日本の国を産み出したイザナギとイザナミの夫婦が死に別れ、イザナギが亡き妻を探して死後の世界に降っていくお話があります。死後の国の食べ物を食べてしまったイザナミは恐ろしい姿に変わってしまい、それを見たイザナギは恐れて逃げ出します。イザナギが後を追ってきたイザナミから逃れるために巨大な岩で道をふさぐと、イザナミは「お前の国の人間を毎日千人殺してやる」と呪います。するとイザナギは「では毎日千五百人の人間が生まれるようにしよう」と応えました。これで人間の世界では、毎日赤ん坊が生まれる一方で死んでいく人たちもでるようになった、ということです。

日本だけでなく、ほとんどの古い神話では死は「恐ろしいもの」で、「避けたいもの」でした。これに「死んだら極楽に行ける」「最後の審判で蘇ることができる」という概念を持ち込んだ宗教が、古代や中世の人々の気持ちを安らかにすることができた、というのは注目しておくべきところでしょう。

さてここからわかるように、日本神話やそこにルーツを持つ神道においては、「死」は不浄なものです。イザナミのような神様であっても、死後の世界に行ってしまえば「一日千人を呪い殺す」という恐ろしい存在に変化してしまう。つまり、お葬式やお墓という死にまつわるものは、日本の神道においては恐るべきもの、タブーだったといえるでしょう。うらみを残して死んだ人は怨霊となって現世にたたりをもたらすので、神社ではそのような怨霊を神として祀り、その霊を慰めます。有名なところでいくと神田明神(平将門)、太宰府天満宮(菅原道真)でしょうか。「亡くなった人の霊を慰める」という意味では、明治維新以来の戦没者を祀った靖国神社もその一種といえるでしょうか。
仏教では亡くなった人はみな仏様になりますが、神道ではあまり明確な定義がありません。といいますか、仏教におけるお経、キリスト教における聖書のような、神道の教えを書いたありがたい教典というものは存在しないのです。そういう意味では、神道は宗教というよりも先祖崇拝を中心とした日本の古い民俗的風習の集合体なのです。

神道がこのような考え方である一方、仏教は日本では長くお葬式と埋葬、お墓について独占している形でした。ほとんどの地方では、お寺の敷地内には檀家の方が眠るお墓があります。その一方で、死を穢れとして考える神社は、墓地や霊園は置かない……と長年考えられていましたが、近年神道式の霊園を開設した神社が出てきました。朝日新聞によれば、全国で50社を越える神社が霊園の運営を検討中だということです。

0c53467f874fd793750427e12335076b_s徳川家康を祀る栃木県の日光東照宮は、2014年から神道専用の霊園と宗教不問の霊園の両方を運営しています。これらは穢れを避ける境内とは別の土地を増設したもので、今後5000基ものお墓を開設する予定だとのこと。神社にはお寺でいう檀家のような存在として氏子がいますが、日光東照宮には氏子はいません。そのため将来的には収入面で不安がある、というところでもあるようです。
また、愛知県清須市の日吉神社も霊園を手掛けています。朝日新聞の写真を見ると、神道形式のお墓もありますが、中には「南無阿弥陀仏」と彫られた仏教系のお墓や、近年はやりのデザイン型墓石も見えます。こちらは神社の境内と隣り合っていますが、やはり塀でしっかりと区別されている模様。また東京の稲足神社は、通常の霊園区画に加えて二人分までのご遺骨をお納めできる納骨堂、四人分まで納められる永代祭祀墓も設けています。人気の霊園と比べても、設備の多様性では引けを取らないのではないでしょうか。
 霊園の運営は地方公共団体、宗教法人、公益法人だけに限られるのが一般的です。神社も宗教法人ですから、霊園を運営する側に回るのは当然ありうること。まだなかなかなじみは薄いことですが、神社によっては氏子から「神道を信奉する人が入るお墓も必要だ」という要請を受けて墓地を開発している、という場合もあります。背に腹は代えられない、というところも、また時代の要請だ、というところもあるのでしょうか。