法事・法要をなぜ行うのか

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法事は、とにかく大変な行事です。親戚や故人の友人など大勢の人に連絡して予定を合わせてもらってお招きし、お食事や引き出物もお金をかけて準備し、もちろんお坊様にもわざわざお越しいただいてお布施やお車料をお支払いする……とても、とても手間のかかるものです。そんな忙しさに追われていると、ついつい「何のためにこんなことをしているのだろう」という気持ちになってしまうのもよくわかります。「法事をきちんとやらなければ家族や親族に文句を言われる」「お寺から案内があるからしかたなく」……「やらされている」という感覚で法事に接する方々が多いのも、ある意味ではしかたがないことかもしれません。

今回は、「法事はなぜ行うのか、どういう意味があるのか」を考えてみます。ご自分なりの「法事の意義」を見つけることができれば、前向きに法事と向き合う手助けになるかもしれません。

ba620226a3552edde87c666e2a1f36a5_sではまず、簡単に法事の起源についてお話ししましょう。
「人は亡くなると七日おきに裁きを受け、極楽浄土に行けるかどうか決まる」というのが、初七日から四十九日までの追善供養のあらましです。初七日は不動明王、それから七日ごとに釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩と来て、四十九日には薬師如来が裁きを行います。

この考え方、実はインドの原始仏教にはありません。これは中国の道教にある「十王経」という考え方によります。「十王」という十人の神格が死後七日ごとと百ヶ日、一周忌に裁きを下して、亡くなった方が極楽往生するかどうかを決めるというものです。十王といってもあまり聞き覚えがない方々ですが、我々日本人にとってもっとも馴染み深いのは「閻魔王」(いわゆる閻魔大王)でしょうか。要は中国の民間信仰として、死後七日ごとに法要を行うというインドから中国にやってきた仏教がこの考え方を取り入れ、日本にもそのまま受け入れられたと考えられます。いわば、お葬式の後に七日ごとに法事を行うのは、インド・中国・日本の文化を折衷した、和洋折衷ならぬ「印中日折衷」スタイルの習俗だということです。

……「法事法要を何のためにするのか」というテーマのわりには、「初七日って実は仏教に関係ないよね」というお話しになってしまいました。ここでちょっと角度を変えて考えてみます。
よく、「お葬式は遺族のために行うもの」と言われます。これは、遺族の見栄や世間体のため、ということではありません。遺族は、どんな形であれ愛する家族を亡くすという大きな大きな悲しみに直面しています。これはあまりにも大きい悲しみなので、この痛みからは誰しも自分だけで短期間に回復することはできません。長い病気をされて……という場合は遺族は自分なりに覚悟はしているものでしょうが、それでも強い衝撃と喪失感に心を支配されます。事故や急病などの場合は、言うまでもありません。遺族は、喪失感とそこから立ち直ろうという気持ちの間を行き来して、その都度心を痛めます。この状態をどうやってケアするか、ということで最近よく聞かれるようになった概念が「グリーフケア」です。
7f2c36af6c148920ec622988b7fbf058_sグリーフ(深い悲しみ)から無理やり引き剥がして立ち直らせるのではなく、寄り添いながら回復のタイミングを待つのがグリーフケア。そのプロセスのひとつとして、悲しみに直面し過ぎないようにするということがあります。法事法要は、そのひとつのきっかけになるとも言えるのです。親族や友人知人と集まってお坊様のご法話を聞き、心がこもったお経をあげていただき、故人の思い出話をしながらお斎をいただく。これを折に触れて行うことで、悲しみを無理に心の奥底にしまいこんでしまうのではなく、少しずつ漂白し、浄化していく。三回忌以降は「あれからもう何年も経つのね」と懐かしく思い出しながら話をする。こうやって、深い悲しみを少しずつほどいていくのです。法事法要を、ただ面倒な儀式としてではなく、悲しみを思い出に転化させるためのひとつのプロセスとして利用する、と考えてみてください。お坊様も仏様も、それに文句をいうほど狭量ではありませんよ。

法事・法要をなぜ行うのか

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法事は、とにかく大変な行事です。親戚や故人の友人など大勢の人に連絡して予定を合わせてもらってお招きし、お食事や引き出物もお金をかけて準備し、もちろんお坊様にもわざわざお越しいただいてお布施やお車料をお支払いする……とても、とても手間のかかるものです。そんな忙しさに追われていると、ついつい「何のためにこんなことをしているのだろう」という気持ちになってしまうのもよくわかります。「法事をきちんとやらなければ家族や親族に文句を言われる」「お寺から案内があるからしかたなく」……「やらされている」という感覚で法事に接する方々が多いのも、ある意味ではしかたがないことかもしれません。

今回は、「法事はなぜ行うのか、どういう意味があるのか」を考えてみます。ご自分なりの「法事の意義」を見つけることができれば、前向きに法事と向き合う手助けになるかもしれません。

ba620226a3552edde87c666e2a1f36a5_sではまず、簡単に法事の起源についてお話ししましょう。
「人は亡くなると七日おきに裁きを受け、極楽浄土に行けるかどうか決まる」というのが、初七日から四十九日までの追善供養のあらましです。初七日は不動明王、それから七日ごとに釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩と来て、四十九日には薬師如来が裁きを行います。

この考え方、実はインドの原始仏教にはありません。これは中国の道教にある「十王経」という考え方によります。「十王」という十人の神格が死後七日ごとと百ヶ日、一周忌に裁きを下して、亡くなった方が極楽往生するかどうかを決めるというものです。十王といってもあまり聞き覚えがない方々ですが、我々日本人にとってもっとも馴染み深いのは「閻魔王」(いわゆる閻魔大王)でしょうか。要は中国の民間信仰として、死後七日ごとに法要を行うというインドから中国にやってきた仏教がこの考え方を取り入れ、日本にもそのまま受け入れられたと考えられます。いわば、お葬式の後に七日ごとに法事を行うのは、インド・中国・日本の文化を折衷した、和洋折衷ならぬ「印中日折衷」スタイルの習俗だということです。

……「法事法要を何のためにするのか」というテーマのわりには、「初七日って実は仏教に関係ないよね」というお話しになってしまいました。ここでちょっと角度を変えて考えてみます。
よく、「お葬式は遺族のために行うもの」と言われます。これは、遺族の見栄や世間体のため、ということではありません。遺族は、どんな形であれ愛する家族を亡くすという大きな大きな悲しみに直面しています。これはあまりにも大きい悲しみなので、この痛みからは誰しも自分だけで短期間に回復することはできません。長い病気をされて……という場合は遺族は自分なりに覚悟はしているものでしょうが、それでも強い衝撃と喪失感に心を支配されます。事故や急病などの場合は、言うまでもありません。遺族は、喪失感とそこから立ち直ろうという気持ちの間を行き来して、その都度心を痛めます。この状態をどうやってケアするか、ということで最近よく聞かれるようになった概念が「グリーフケア」です。
7f2c36af6c148920ec622988b7fbf058_sグリーフ(深い悲しみ)から無理やり引き剥がして立ち直らせるのではなく、寄り添いながら回復のタイミングを待つのがグリーフケア。そのプロセスのひとつとして、悲しみに直面し過ぎないようにするということがあります。法事法要は、そのひとつのきっかけになるとも言えるのです。親族や友人知人と集まってお坊様のご法話を聞き、心がこもったお経をあげていただき、故人の思い出話をしながらお斎をいただく。これを折に触れて行うことで、悲しみを無理に心の奥底にしまいこんでしまうのではなく、少しずつ漂白し、浄化していく。三回忌以降は「あれからもう何年も経つのね」と懐かしく思い出しながら話をする。こうやって、深い悲しみを少しずつほどいていくのです。法事法要を、ただ面倒な儀式としてではなく、悲しみを思い出に転化させるためのひとつのプロセスとして利用する、と考えてみてください。お坊様も仏様も、それに文句をいうほど狭量ではありませんよ。