追善供養とは

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「追善」に込められた深い意味

追善供養とは、なんでしょうか。
辞書を紐解くと、「死者の冥福を祈って行われる供養」と書いてあります。平たく言えば、法事全般ということになります。

もう少し細かく見てみましょう。
「追善」という言葉に含まれている「追」という文字の意味はなにかを、考えてみます。
これには、日本で行われている仏教の思想にかかわる理由があるのです。

ac0b1a5121ee27e82f262dd3e9e8a54f_sわたしたちは、日常の暮らしの中で「おかげさまで」という言葉を使います。これは、いったい何の「おかげ」なのか、考えてみたことがある方はあまりおられないでしょう。人間は生きていく限り、無数の人々や動物、植物などすべてのものの「おかげ」で生きています。ものを食べれば食べたもの……動物や植物の命をいただいていますし(食事をする前に「いただきます」と挨拶をするのはこのためですね)、ただ戸外を歩くだけ、息をするだけでもごく小さな虫の命をあやめることになってしまう。このように、人は生れ落ちてからその生涯を閉じるまでの間に、無数の命の「おかげ」で生かされているのです。あえて触れませんでしたが、もちろん人生を送っていく中で、親兄弟をはじめとして友達からご近所、学校、職場、さまざまな人々の「おかげ」も受けて暮らしていきます。そもそも「人間」という言葉は仏教用語で、「世間」「人が生きる世の中」を指します。それが転じて「人」と同義になったということは、それだけ人が生きる上でほかの人と、世間のお世話にならなければ生きていけない、ということを表しているのです。

さて、このようにたくさんの命の「おかげ」で生きているわたしたち人間ですが、その「おかげ」は受けたままでいいのでしょうか。もちろん返せるものは返したいというのが当然の感情ですが、実際には命を閉じる瞬間まで何かの「おかげ」は積み重なっていきます。とうてい、今生のうちに返すことはできないだけの量の「おかげ」を抱えたまま、人は三途の川を渡らねばなりません。こればかりは、立派なお葬式を挙げてもらって戒名をもらい、「ほとけさま」になったところですべて帳消し……というわけにはいかないのです。
では、その抱えた「おかげ」は、どうすればいいのでしょうか。返したくても、本人は亡くなっていますから返せない。そこで、現世に生きている遺族の出番となります。「追善供養」は、この「おかげ」の恩を、亡くなった当人に代わって遺族が返していく……というものなのです。

日本には「還暦」を祝う習慣があります。還暦を迎えると、人は人生の一つの周期を生ききって新しい人間に生まれ変わる。だから、赤ん坊を模した赤いちゃんちゃんこを着るわけです。人間には生まれ変わるポイントがもう一つあります。それは、亡くなったとき。このとき、人は「ほとけさま」へと生まれ変わりますが、また仏としての齢を重ねていく必要があります。その一歳の誕生日が、一周忌にあたるわけです。その誕生日ごとに「おかげ」へのお返しをしていき、それが三十三回になったとき、すべての「おかげ」を返し終わり、はじめて完全な「ほとけさま」になりかわることができます。
法要を行うことを、「回向(えこう)を手向ける」といいます。「回向」とは、文字の通り功徳を「回し、向ける」こと。「おかげ」へのお返しを、お経やお念仏を読んで功徳を手向けることでお送りする。
これが、「追善供養」を行う意味なのです。

追善供養の実際

さて、その追善供養ですが、実際にはどのように行うのでしょうか。大もとになる考え方に、「年回法要」があります。先にも簡単に触れましたが、「三回忌」「十三回忌」などのことを指します。年回法要は、祥月命日(亡くなられた同じ月、同じ日)に行うのがよいとされています。
以下、どの年にどの年回法要を行うかを一覧にしました。~年目、というのは亡くなって何年目の祥月命日かを表します。なお、現代では必ずしも祥月命日にこだわらず、法要にかかわる方々に都合の良い日を選んで営まれます。

一周忌:1年目
三回忌:2年目
七回忌:6年目
十三回忌:12年目
十七回忌:16年目
二十三回忌:22年目
二十七回忌:26年目
三十三回忌:32年目
三十七回忌:36年目
四十三回忌:42年目
四十七回忌:46年目
五十回忌:49年目
七十回忌:69年目
百回忌:99年目

三回忌が2年目にあたるのは、亡くなられた日を一回目の忌日として数えるため。同じ数え方をすると、一周忌を行う1年目の祥月命日は本来「二回忌」にあたります。一周忌と三回忌に法要を行うのは、もともとは儒教に影響を受けた中国の仏教から来ているとされます。それ以降の年回法要は、日本に仏教が根づいていく中で形作られた習慣です。西暦500年代の仏教伝来以降、鎌倉~室町時代には今のような年回法要が営まれるようになりました。
ほとけさまとして一回りである三十三回忌を執り行うのも、残された遺族の年齢を考えると難しいことですが、それ以上となるとさらに困難。お坊様と相談しながら、たとえば「曾祖母の三十三回忌と、叔父の十三回忌をいっしょに」など、年忌が重なるご親族の年回法要をまとめて行うなど、無理のない形で行われるのがよいでしょう。また、どうしても年忌が重ならない場合は、何年か早めて行うことも多いようです。

年回法要以外にも、さまざまな形の追善供養があります。
いちばん身近なのが、ご自宅にあるお仏壇へのお給仕でしょう。毎朝お水やお茶とご飯をお供えし、お経を読むかお念仏、お題目などを唱えます。できれば夕方にも読経するとよいでしょう。そこまで腰を据えるのは難しい、という場合なら、朝夕にご挨拶されるだけでも結構です。
お墓参りも大切です。毎日、毎月行く必要はないのですが、やはり少なくとも春夏秋冬に一度ずつはお参りされるとよいのではないでしょうか。お墓を掃き清め、墓石を磨き、供花を供えてお参りをする。こうやって故人との思い出を深め、「おかげ」を返していくのです。

追善供養は故人のためでもありますが、故人のことを思いながら自分の身を振り返ることでもありますし、自分よりも若い子供や孫と一緒に行うならば「故人に感謝する」という姿を見せることで、家族の絆はより強まることでしょう。これもまた、ひとつの教育の形といえるのではないでしょうか。また、あまり集まる機会もなくなってしまった遠い親族でも、年回法要の際に再会して旧交を温めることができます。かつて故人と共に笑い、生きた親族が再び集って故人の思い出を語り合う。それは、故人にとって何よりの供養といえるでしょう。

追善供養とは

投稿日:

「追善」に込められた深い意味

追善供養とは、なんでしょうか。
辞書を紐解くと、「死者の冥福を祈って行われる供養」と書いてあります。平たく言えば、法事全般ということになります。

もう少し細かく見てみましょう。
「追善」という言葉に含まれている「追」という文字の意味はなにかを、考えてみます。
これには、日本で行われている仏教の思想にかかわる理由があるのです。

ac0b1a5121ee27e82f262dd3e9e8a54f_sわたしたちは、日常の暮らしの中で「おかげさまで」という言葉を使います。これは、いったい何の「おかげ」なのか、考えてみたことがある方はあまりおられないでしょう。人間は生きていく限り、無数の人々や動物、植物などすべてのものの「おかげ」で生きています。ものを食べれば食べたもの……動物や植物の命をいただいていますし(食事をする前に「いただきます」と挨拶をするのはこのためですね)、ただ戸外を歩くだけ、息をするだけでもごく小さな虫の命をあやめることになってしまう。このように、人は生れ落ちてからその生涯を閉じるまでの間に、無数の命の「おかげ」で生かされているのです。あえて触れませんでしたが、もちろん人生を送っていく中で、親兄弟をはじめとして友達からご近所、学校、職場、さまざまな人々の「おかげ」も受けて暮らしていきます。そもそも「人間」という言葉は仏教用語で、「世間」「人が生きる世の中」を指します。それが転じて「人」と同義になったということは、それだけ人が生きる上でほかの人と、世間のお世話にならなければ生きていけない、ということを表しているのです。

さて、このようにたくさんの命の「おかげ」で生きているわたしたち人間ですが、その「おかげ」は受けたままでいいのでしょうか。もちろん返せるものは返したいというのが当然の感情ですが、実際には命を閉じる瞬間まで何かの「おかげ」は積み重なっていきます。とうてい、今生のうちに返すことはできないだけの量の「おかげ」を抱えたまま、人は三途の川を渡らねばなりません。こればかりは、立派なお葬式を挙げてもらって戒名をもらい、「ほとけさま」になったところですべて帳消し……というわけにはいかないのです。
では、その抱えた「おかげ」は、どうすればいいのでしょうか。返したくても、本人は亡くなっていますから返せない。そこで、現世に生きている遺族の出番となります。「追善供養」は、この「おかげ」の恩を、亡くなった当人に代わって遺族が返していく……というものなのです。

日本には「還暦」を祝う習慣があります。還暦を迎えると、人は人生の一つの周期を生ききって新しい人間に生まれ変わる。だから、赤ん坊を模した赤いちゃんちゃんこを着るわけです。人間には生まれ変わるポイントがもう一つあります。それは、亡くなったとき。このとき、人は「ほとけさま」へと生まれ変わりますが、また仏としての齢を重ねていく必要があります。その一歳の誕生日が、一周忌にあたるわけです。その誕生日ごとに「おかげ」へのお返しをしていき、それが三十三回になったとき、すべての「おかげ」を返し終わり、はじめて完全な「ほとけさま」になりかわることができます。
法要を行うことを、「回向(えこう)を手向ける」といいます。「回向」とは、文字の通り功徳を「回し、向ける」こと。「おかげ」へのお返しを、お経やお念仏を読んで功徳を手向けることでお送りする。
これが、「追善供養」を行う意味なのです。

追善供養の実際

さて、その追善供養ですが、実際にはどのように行うのでしょうか。大もとになる考え方に、「年回法要」があります。先にも簡単に触れましたが、「三回忌」「十三回忌」などのことを指します。年回法要は、祥月命日(亡くなられた同じ月、同じ日)に行うのがよいとされています。
以下、どの年にどの年回法要を行うかを一覧にしました。~年目、というのは亡くなって何年目の祥月命日かを表します。なお、現代では必ずしも祥月命日にこだわらず、法要にかかわる方々に都合の良い日を選んで営まれます。

一周忌:1年目
三回忌:2年目
七回忌:6年目
十三回忌:12年目
十七回忌:16年目
二十三回忌:22年目
二十七回忌:26年目
三十三回忌:32年目
三十七回忌:36年目
四十三回忌:42年目
四十七回忌:46年目
五十回忌:49年目
七十回忌:69年目
百回忌:99年目

三回忌が2年目にあたるのは、亡くなられた日を一回目の忌日として数えるため。同じ数え方をすると、一周忌を行う1年目の祥月命日は本来「二回忌」にあたります。一周忌と三回忌に法要を行うのは、もともとは儒教に影響を受けた中国の仏教から来ているとされます。それ以降の年回法要は、日本に仏教が根づいていく中で形作られた習慣です。西暦500年代の仏教伝来以降、鎌倉~室町時代には今のような年回法要が営まれるようになりました。
ほとけさまとして一回りである三十三回忌を執り行うのも、残された遺族の年齢を考えると難しいことですが、それ以上となるとさらに困難。お坊様と相談しながら、たとえば「曾祖母の三十三回忌と、叔父の十三回忌をいっしょに」など、年忌が重なるご親族の年回法要をまとめて行うなど、無理のない形で行われるのがよいでしょう。また、どうしても年忌が重ならない場合は、何年か早めて行うことも多いようです。

年回法要以外にも、さまざまな形の追善供養があります。
いちばん身近なのが、ご自宅にあるお仏壇へのお給仕でしょう。毎朝お水やお茶とご飯をお供えし、お経を読むかお念仏、お題目などを唱えます。できれば夕方にも読経するとよいでしょう。そこまで腰を据えるのは難しい、という場合なら、朝夕にご挨拶されるだけでも結構です。
お墓参りも大切です。毎日、毎月行く必要はないのですが、やはり少なくとも春夏秋冬に一度ずつはお参りされるとよいのではないでしょうか。お墓を掃き清め、墓石を磨き、供花を供えてお参りをする。こうやって故人との思い出を深め、「おかげ」を返していくのです。

追善供養は故人のためでもありますが、故人のことを思いながら自分の身を振り返ることでもありますし、自分よりも若い子供や孫と一緒に行うならば「故人に感謝する」という姿を見せることで、家族の絆はより強まることでしょう。これもまた、ひとつの教育の形といえるのではないでしょうか。また、あまり集まる機会もなくなってしまった遠い親族でも、年回法要の際に再会して旧交を温めることができます。かつて故人と共に笑い、生きた親族が再び集って故人の思い出を語り合う。それは、故人にとって何よりの供養といえるでしょう。